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ポートロワイヤルの戦い (1710年) : ミニ英和和英辞書
ポートロワイヤルの戦い (1710年)[ぽーとろわいやるのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

ポートロワイヤルの戦い (1710年) : ウィキペディア日本語版
ポートロワイヤルの戦い (1710年)[ぽーとろわいやるのたたかい]

ポートロワイヤルの戦い(英:Battle of Port Royal)またはアカディア征服は、イギリスの正規兵、およびイギリス入植地の総督フランシス・ニコルソンの指揮下にある現地兵と、ダニエル・ドージェ・ド・スーベルカスの指揮下にあるアカディア駐屯兵との間で、アカディアの首都ポート・ロワイヤルで、1710年10月5日から13日まで行われた戦いである。〔この記事では、日付はグレゴリオ暦をもとにしているが、この戦闘に関するイギリス文献の多くの日付はユリウス暦で、その場合日付は9月24日から10月2日となる。〕イギリスはこの包囲戦に勝利し、アカディアの半島部分を自国のものとして、ノバスコシアと改名した。これは、イギリスが、初めてフランスの入植地域を、自らの支配下におさめた戦いでもあった〔歴史家のジョン・グレニエによると、1710年以前のイングランドは、フランスの入植地をただ単に奇襲し、略奪し、一時的に占領しただけだった。(Grenier, p. 12)〕。フランスの降伏の後、イギリスは首都の要塞を占領し、ヨーロッパの戦争で要塞を奪った時のような、華々しい儀式を展開した。〔Grenier, p. 15〕。
この戦いは、アン女王戦争期間中に、イギリスが3度アカディアの首都を奪おうと試みて、やっと達成されたものであり、その後の50年間に重大な意味を持たせることになった。また、1711年から1713年にかけての、条約による交渉は、新たな問題が作りだされるもとともなった。ノバスコシアに入植地を新しく建てることで、アカディアに留まり続けようとするアカディア人とミクマク族〔For "Mi'kmaq" versus "Micmac" or other potential transliterations, see the article Mi'kmaq people.〕の将来に関して、大きな問題点が生じたのである。〔Reid et al, p. x〕
アカディア征服は、カナダという国家の歴史の根幹をなすものでもあった。イギリスによるルイブール、そしてケベックの征服の先駆となり、北アメリカのフランスの権力をことごとく終結させる、その前兆となった。〔McKay, Ian and Bates, Robin. ''In the Province of History: The Making of the Public Past in Twentieth-Century Nova Scotia.'' McGill-Queen's University Press. 2010. p. 78.〕
==アカディアをめぐる争い==
ポートロワイヤルは、フランス人がカナダに初めて入植を始めた1604年ごろから、アカディア・フランス入植地の首都であり、その結果、18世紀には、イングランドとフランスの入植者との間での争いの舞台となった。1613年にはサムエル・アーゴール率いるイングランド軍の襲撃により破壊されたが、結局再建された。〔MacVicar, pp. 13–29〕1690年には、マサチューセッツ湾植民地により、ポートロワイヤルを奪われたものの、ライスワイク条約でフランスに返還された。〔MacVicar, pp. 41–44〕
1702年スペイン継承戦争の勃発で、両国の入植者たちは、再び戦闘への準備を始めた。アカディアの総督であるジャック=フランソワ・ド・モンベトン・ド・ブロイヤンは、戦争が起きるのを見越して、1701年に、石と土の要塞を築きはじめ、1704年には、その要塞はおおかた完成していた。1704年2月の、フランスによるマサチューセッツ辺境のディアフィールド奇襲が起き、ボストンのイギリス系入植民は、その年の5月にアカディア襲撃を計画した。〔Drake, pp. 193–202〕 ベンジャミン・チャーチに率いられたマサチューセッツの入植者たちは、、アカディアのグランプレと他の町をも襲撃した。チャーチが、アカディアへの襲撃をしたかどうかについて、イングランドとフランスの話は食い違った。チャーチ自身の説明によれば、アカディアの港に停泊してから、襲撃を考えたが、結局は中止を決めたと述べた。フランス側は、小さな襲撃があったと述べた。〔Drake, p. 202〕
1706年に、ダニエル・オージェ・ド・スーベルカスがアカディアの総督になった。スーベルカスはイングランドに対して攻撃的であり、先住民の、ニューイングランドへの襲撃を奨励した。また、ポートロワイヤルを拠点に、イングランド植民地への輸送船を私掠することも勧めた。私掠はかなりの効果を上げた。グランドバンクのイングランドの漁船団は、1702年から1707年までの間に80パーセントも減った。そして、沿岸部のイングランドの入植地は襲撃された。〔Faragher, p. 113〕
ボストンのイングランド商人は、ポートロワイヤルと長く取引があり、うち一部は、戦争が起こった後も、違法に活動を続けていた〔Peckham, p. 66〕 。しかし、交易活動が戦争により痛手を受け、他の商人たちが違法行動に声を上げ始め、フランスと先住民の襲撃に手を打てない当局に対して暴動が発生した。〔Drake, p. 225〕〔マサチューセッツ湾入植地の総督であるジョセフ・ダドリーは、イギリス本国に、支援を何度も要求したが、その支援は本国には何ら見返りのないものだった。ダドレーはついに、違法商業活動の共犯という非難を受け流すため、自主的に行動を起こすことにした。〔〔Rawlyk, p. 100〕 1707年の春、ダドレーはポートロワイヤルへの遠征隊を組織した〔Faragher, p. 114〕。ポートロワイヤルの奪還目的の遠征で、数の上では優勢だったが、遠征も、非難をかわすことも失敗に終わった。その理由はさまざまである。〔Drake, pp. 225–236〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ポートロワイヤルの戦い (1710年)」の詳細全文を読む




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